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窓の外には紫の空が広がっている。突き抜けるように単色の空が……。風の音がかすかに聞こえ、カーテンを優しく揺らす。 私の肌は風を捉えられず、耳だけがその存在を捕まえた。 「いかがいたしましたか?」 囁くように静かな声。呆けていたらするりと抜けていきそうな。 私はゆっくりと首を戻し、声のした方へと向いた。 メイドが一人たたずんでいる。クリーム色で緩やかにカーブを描いたボブヘアと褐色肌、なにより赤い瞳が目を引く女性だ。 「……いかがいたしましたか?」 首をゆっくり、ゆっくりと傾けてメイドがもう一度聴いてきた。 「いや、なんでもない」 私は手元に広がる本に目を落とし、しばらく眺めた。 はて、なぜこれを読もうと考え至ったのだったか。 しばらく考え、ついに思い出すことはできないと判断、本を閉じた。棚へと収めると、私の眼前に半透明のウィンドウが広がった。前回この本を読んだ日付が表示されている。 ――十年前。 ああ、そうか、そんなに前となるのか。私はウィンドウを閉じ、メイドへと歩み寄った。 「紅茶を」 彼女はゆっくりと腰を折り、奥へと消える。そういうふうに”作った”のだ。 私はテーブルに座って目を閉じた。 私はコーディネーター。 少なくとも周りからはそう呼ばれている。私が今居るこの世界。愛する場所。電子世界、ゲーム。 ゼラニウムオンラインでは――。 稼働から二十年間、止まることなく脈々と続くこの世界では、考え得る限りのあらゆる要素が、そう、まさに渦巻いていた。 自由度の高い戦闘、生産、コミュニケーション……ああ、いい、話が逸れた。少なくとも”私の”話からは逸れた。 私はコーディネーター。 その説明だけをすればいい。 このゲームの自由さは、根本となるシステムにまで及んでいる。浸食しているといってもいい。ゲーム内のキャラクターAIを自分で汲み上げることができるのだ。簡単なエディター……パズルを汲み上げていくだけで、相棒、隣を歩いてくれる友を、誰でも作り上げることができる。 当初、十……数年前の私は、このAI作りに取り憑かれたように熱中した。考え得るAIを大量に生産した。思いつく限りを作って、作った。目につく全てをAIに結びつけた。あらゆるものにAIの元を見いだした。とにかくもう、作り続けたのだ。 しかし、満足できなかった。 運営が提供するパズルで汲み上げられる限界は、簡単に突破してしまった。 その時、なにが私を突き動かしていたのだろう。今となっては想像するしかないが、神にでもなった気になっていたのかもしれない。 ふっ、青臭い。 ともすれ、私は運営から渡されたおもちゃを放り出し、自分で”パズル”を作りはじめた。それだけの自由さがこのゲームにはあったのだ。 だからこそ私はさらに取り組んだ。 幾百のAIが作り上げられていった。 いくつもいくつも作った。 演劇をするAI、ダンジョンを駆け抜けるAI、料理をするAI、生活するAI、畑仕事をするAI、AI、AI、AI、AI。……幸せだった。 ああ、私のAIだけで街を作ったこともあった。……確か二つほど。いや、三つだったかもしれない。 あらゆる知識を吸収して、時間も、プライドも、もちろん金もつぎ込んで、私は邁進した。全てがAI作りに捧げられる糧であり、贄だった。 私の中になにも無くなれば、私は外に求めた。全てを。 要望があればその通り作った。希望があればその通り作った。願望があればその通り作った。欲望があればその通りに作った。作った。作った。作った……作って、作って、作って、作って、作って、作って、作って、作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って作って――。 ついには外にすらなにもかもが無くなった。 完璧に動くAIたち。完璧に振る舞うAIたち。 私の世界が完成した。 あとは細かな修正を繰り返していくだけ。 それはバグだったり、AIたちの関係性だったり、ちょっとした動作のタイミングだったり。 そうしているうちに、私はコーディネーターと呼ばれるようになった。 コーディネーター。調整する者。 皮肉と、賛辞と、奇異が混ざった称号。 そうして本当になにもかもが無くなった気がした。この称号のために、なにかの役割のために私は進んできたのだと思えた。 だから私は最後に挑んだ。 最高で、 最終で、 完結で、 完璧なAIを作ろうとしたのだ。 これまでの全てを詰め込んだAI。 それはあらゆる要素が綿密に絡み合い、一千以上のランダムな数値によって成長し、まったく同じパズルから生まれ、まったく違うAIに成長する――。 私の中にあった、かき集めた残りカスのなかに残っていた、たった一つだけあったカケラを捧いだAI。 私は本当に神になるうと思ったのかもしれない。 いや。 もうそんな年でもなかった。 ただただ、それだけしかなかったのだ。 そうしてできたのが私の相棒で友であり、恋人としてそこに居て愛人も兼ね、妻のように寄り添い、子供よりも愛しく、しかしそれら以上の存在――アリスだ。 私にとってアリスは、あらゆる「欲」の対象からはかけ離れた特別なもの――。 アリスは、アリス。 その存在証明のために、私はこれまでの全てを捧げてきたのだと確信できた。長い道のりだった。全てを放り投げてきた。 後悔などはない。 後悔などは……。 そうやって作られたアリスは、いくつも幾百も幾万も配られた。アリスはこのゲームを闊歩しはじめた。一人として同じアリスはない。一つとして不完全なアリスもない。 全てが、完璧。 全てが、完全。 今のメイド姿とその行動も、私が育てた私のアリスが、アリス自身により選択し、決断、服まで選んだのだ。 ……。 「――あの」 「あ!? ああ」 アリスが屈み込みながら私を覗き込んでいた。心配そうに揺れる瞳、愛しい紅。 「なんでもない、呆けていた」 「最近は、よくそのようにしております」 アリスは「心配」だと絶対にいわない。静かにたたずみ、その瞳を小さく振るわせる。 私がそう作った。 そう、私が。 ――そうか。 「紅茶を――」 「ああ」 一度は了承する。 カップをテーブルにつこうとする瞬間、私は、 「おい」 「え!?」 アリスが驚いたように手を止めた。カップの中で波がゆらりと揺らぐ。 大きく開いた瞳と口。一際大きな声。 これだ。 このアリスだ。 このアリスは、私のアリスではない。 ある動作、あるタイミングに、あるトリガーでもってのみ現れる、私の知らないアリス。 ――バグだ。 私の完全なAIは、小さな、しかし大きなバグを抱えていたのだ。 完璧が完璧ではなくなった。 小さな|虫《バグ》が、私のアリスをどこかから食い破り、私の前へと顔を見せたのだ。いつ生まれたのか、いつからそこに巣くっていたのか。 私はアリスの全てを知っている。その小指の爪のそのまた先の断面から始めて、頭のてっぺんに一箇所だけ梳き忘れて跳ねている髪の中に数本の茶色の毛が混じっていることまで知っている。 ああ、それなのに、それなのに。 私のアリス。 ギリギリと震える手を押さえつけ、私は冷静を取りつくろった。 ああ、さっき読んだ本も、なにかを、そう、まさになにかヒントのような、私の知らない情報を探して開いていたのだった。あるはずもないが。 あげく自分が何をしていたのかも忘れ、窓を眺め、過去へとさかのぼるなどと……。本気で呆けたか。 正直なところ、皆目見当がつかなかった。なにせ私のアリスは完璧なのだ。彼女を包むコード、パズルを、余すところなく私は知っているはずなのだ。 それはあまりにも膨大な量になっている。彼女一人をひも解くだけで、何百、何千のAIを作ることができるんだろう。すさまじい負荷に耐えきれるように、彼女はこのゲームの根本であるシステムにまで食い込み、他のアリスと繋がり、まさに目に見えない糸でお互いを支え合っている。けれども、彼女たちは絶対に混ざらない。 そういうふうに作った。そうだったはずだ。 完璧に、完全に。 最高に、最終に。 だからこそ私には、先程の光景がどうしても理解できなかった。したくなかった。 「アリス」 「なんでしょうか」 「ウィンドウを開け」 この一言だけで、アリスは全てを悟ったように目を閉じた。彼女の輪郭がポリゴンの泡となり、ゆっくりと霧散していく。 あとに残ったのは、私がアリスのためだけにこさえたウィンドウが一つ。 ここに表示される幾万の文字列がアリス。 私のアリス。 そこに分け入るのは、自分の庭を散歩するようなものだ。……ジャングルのように広いが。 私は慣れた手つきでアリスの中へと分け入った。 これまで幾万も繰り返してきた作業。もちろん彼女が完成してからは見回り程度にしか入ったことはなかったが。 整然と並べられたパズル。私だけの美学に基づいて整理され、どこまでもどこまでも続いている。 「アリス、お前をおかしくしている場所はどこにあるんだ」 答えは返ってこない。 ◇ 二週間が過ぎた。 私は未だアリスの中に居る。 懐かしいコードたち。完璧なコードたち。 手直すところも見当たらず、ラベルを見てはいつそこに置いたのかを確かめるのみ。 これは二年前のもの。 これは三年前。 そういうふうに過去へ、過去へとさかのぼるように私はアリスの中へと分け入っていく。 笑い方だけでざっと六千はある。私が用意したものもあるし、彼女が自分で考えたものもある。しかし、それらの破綻も一切無く、完璧。完全。 知らない間に戦闘用のアルゴリズムも大量にあった。前にダンジョンに入ったのはいつだったか。 たまにゲームの仕様変更により、今後絶対に動作しないであろう箇所を見つけることもあった。 ありはしたが、アリスはそれらに固く封をして、奥へと押し込んでいる様子が見受けられた。 「ふむ」 コードには、昔の私とアリスが刻み込まれているようだった。 試行錯誤とごまかしの跡。 かすかな記憶が蘇ろうかとする瞬間、次のコードが顔を出す。 ダイヤモンドのように美しい私のコード。 積み上げられたパズル。 アリスの一片。 ◇ 一ヶ月が過ぎた。 懐かしい仕様書が出てきた。 かなり初期のものだ。 「スレたと自分で思い込んでいたが、なかなか青臭いことをいっているな」 汚い字でつらつらと書き殴られた、1枚の画像ファイルの中に、一際大きく「人を作る」と記されていた。 最後の最後に相応しいものを作ろうと息巻いていたのだろう。 「流石に恥ずかしいか」 無表情に削除コマンドを打ち込もうとする。 が、 「……」 どうしてもできなかった。 ◇ これまた古いコードが出てきた。 私の、本当の本当に初期のものだ。 運営が容易したエディターで作った、本当にみすぼらしいパズル。 なぜこんなものがここにあるのか。 どうやらアリス自体には組み込まれていないようだ。ただの置物、オブジェクトといったところか。それにしては不格好すぎるが。 間違えて混ざったか。 アリスもアリスだ。なぜこんなものをここに置いてあるのか。 ここはコアに近い。 なにかの間違いで(ありえないが)この骨董品が動き出したら大変なことになる。 ラベルを見る。 ー挨拶ー コメント:とりあえず喋る。ご主人様とか。 「ふっ」 日付は十数年前になっている。 私はいくつかの操作をして、このパズルを彼女の末端へと追いやった。 「ん?」 パズルの後ろに隠れるように、もうひとつ、パズルがそこにあった。 これもまた古い。 直感が走った。 そうとしか思えないようななにかが私を駆け巡った。 パズルからは一本だけ、どこかへと繋がる糸が垂れていた。 こいつは動いている! 私の手は半自動的に動き、目が忙しなくコードを舐め上げた。 一行目にはこう書かれていた。 「ありがとう、これでAliceが動く」 体中の力が抜けた。 ◇ あれは、あのコードは、まだ私がAIを作りはじめた頃に扱った基本ユニットだった。正確にはそれを改造した出所不明の拾い物。 一から何かを作るのは誰にだって難しく、大変な壁に見えるものだ。 あの拾い物は、そういう意味で当時の私にはできそうにない、ほとんどのものをカバーしてくれたまさに「ありがたい」掘り出し物だった。 素人のコードでAIが歩けるだろうか。 ものを扱えるだろうか。 喋るだろうか。 否だ。 私はあの掘り出し物を使い、最初のAIを組んだ。確か一緒に冒険をしていた気がしたな。いつの間にかいなくなっていたが……。 ああ、その名前が、そう――。 話を戻そう。 拾い物は、アリスがシステムに食い込んでいるのと同じようにどこかへと繋がっていた。 どこへ繋がっているのか? それは私にもわからない。 深い深いこの世界のどこか……、私の知らないダンジョンの奥、いつか聞いた海の奥底に沈む神殿、空に浮いた島々の一つ。もしやもすると、ここから三十分ほどでつく街の一軒に繋がっているかもしれない。 そう、私の知らないどこかに、あのパズルの先がある。 私のこしかけるテーブルに、ティーカップが一つ置かれた。 やわらかく湯気を出している。 「ありがとう」 私のアリスは静かに微笑んだ。 口をカップへと近づける。ミントの香りが鼻をくすぐった。 窓の外には紫の空が広がっている。単色で、突き抜けるような。 「……なあ」 呼びかけたものの、私は言葉に詰まった。 先を促すようにアリスが口を動かす。 「はい」 髪がやわらかく揺れている。あと数秒もこうしていると、瞳がかすかに揺れはじめるだろう。さらに数秒まてば――。 いや。 「外に出ないか」 アリスはうなずき、右手に日傘を出現させた。 「どちらに、”ご主人様”」 「ふむ、そうだな……」 そうだな――。
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