現役小説家が出すことに意味がある。が、手を広げすぎて薄味感は否めない「小説講座 売れる作家の全技術」書評・読書メモ

200以上ある文学新人賞から毎日多くの作家が誕生しているが、数年後に残るのはわずか数パーセントにすぎない。30年以上にわたりトップを走り続ける著者が、作家になるために必要な技術と生き方のすべてを惜しげもなく公開する小説講座の決定版。

via: Amazon.co.jp: 小説講座 売れる作家の全技術 デビューだけで満足してはいけない: 大沢 在昌: 本

現役の小説家である著者が、自身の小説哲学とでも言うべきものを講義議事録の形でこれでもかとあけすけに披露してくれている。取り上げる事柄は多岐にわたり、視点、口調、キャラクター、起承転結、劇中専門用語、コツ。とにかくなんでもかんでも、全てに対してメスを入れようという気概を感じる。

しかしだからこそというべきか、一つ一つの項目にはあまりページ数が割かれていない。さらに惜しいのが、引用がないということ。これでは指摘することがなんなのか、少なくとも小説家志望の「初心者」は理解するのに時間がかかってしまうだろう。著者としては自身の諸作を例に挙げてはいるけれど、実際の文章と引き合わせてではないと、こういった技術書というのは言わんとすることがほとんど伝わらないのだ。
つまりこの本は、「小説を書いたことがない、完成させたことがない人」には難解で、「ある程度数をこなしたことはあるが、こういった技術書を読んだことがない人」に向いていると言える。何故「こういった技術書を読んだことがない人」向きなのかと言うと、先述したとおり、項目毎のページが少なく、手を広げすぎたために全体的に薄味な仕上がりになってしまっているからだ。

ただ、それもあくまで「技術書」としてこの本をみた場合の感想だ。現役小説家が書いた、そこに本書における全ての意味がある。小説家になるためにはどうするべきか、どういった心構えが必要か、どのような練習がいいか。そういった疑問にもとことん答えていっている。もちろん著者の考えであり、それが全てではないが、小説で飯を食っていこうと考えている人は著者の考え方に触れておくのも良いだろう。
結局は、売れるものを書いていかないといけない。トコトン書くこと。毎日一定数書くこと、〆切を守ること、ネットの感想は見ないこと、推敲を繰返すこと、編集の言うことをどう解釈すればいいのか、孤独に耐えること。
そういった、著者独自の生き残り術というか、コツというか。そういったものをアケスケと披露してくれている。

  •  一人称

一人称で書くためには、この三つのハードルをクリアしなければなりません。かなり難しいはずです。実際に書いてみて、「あれ、一入称だとうまく伝えられないそ」と気づく人も多いと思いますし、そこで、一人称にもかかわらず視点の乱れが起こり、つい「00は真っ赤になって怒った」と書いてしまう。「○○は真っ赤になって怒っているように見えた」でなければいけないのに。

p28より

数ある小説技術書は編集者や小説を研究する人、つまり「読む側」によるものがほとんだ。この本は現役小説家。一つの講義をとっても「書き手」の視点から語ってくれるのが嬉しい。実際こういった指摘をしている技術書というものはあまりない。指摘されて「ハッ」とされるのは、やはり同じ書く側からの言葉だから、という項目もかなり多い。

ただ、文章については、など、一人称としてはおかしな表現がいくつか見られます。「表情を曇らせる」のは、自分ではなく他人から見た印象でしょうし、自分で「頬を染める」ことはできませんね。「頼が熱くなった」などとすべきです。他の作品にも同じようなミスがありました。皆さんは無意識のうちにそういう表現をしてしまっているのでしょうが、もう少し自分の文章に敏感になってください。

p30より

「自分の文章に敏感になれ」……まさにその通りでございます。へへー。

同様に、<「遅いわよ、浬芳」/不機嫌に眉根を寄せてみせると、~>という表現があるけれど、自分の表情をわざわざ、「何々してみせる」という人はあまりいない。「「遅いわよ、浬芳」/あたしは眉根を寄せた」あるいは、「不機嫌に言った」でいいし、主人公がわざと不機嫌そうな態度をとっているのであれば、「不機嫌そうに言ってやった」など、別の表現になるはずです。

p33より


これらにあるような、一人称にすることで起きる罠というものには私もはまっていたように思う。気をつけるようにしたい。

  • 劇中における専門用語

という文章。何が何だかさっぱりわからない。これは、主人公とそれを取りまく世界が特殊なものだということをわからせる匂いづけというか材料なんだから、もう少しポイントを絞って使うとか、あるいはどうしても専門用語を使う必要があるのならば、もっとわかりやすい書き方にしないと読者には伝わりません。専門用語を使うことで文章そのものが何らかの価値を持つと思ってはいけない。下手をすると鼻につく、読者に反感を持たれかねない書き方なので、気をつけてください。

p44より

赤字は私がつけた。エンタメ作品を書く場合、現実世界とは全く違ったり、専門色の強い世界を構築したりする。そういう場合ネックというか重要な要素になるのが専門用語という存在だ。工業界ならサーモとかアクチュエーターとか理論回路とかサーボとかシーケンスとか。魔法界ならエンチャントとかマジカとかファイヤーボールとかエレメントとか。厨二なら……といった具合。

私たちは世界を専門用語で色づけする。いや、色づけできると誤解してしまう。ここを常に気をつけていきたい。新しい言葉を使うときには常に注意を払い、それを出せるだけの下準備ができているのか、慎重に判断を下さなければならない。こういった間違いは、プロでも結構やっている。

  • 意外性のある物語はどうやって構築することができるのか?

 作者は「神」だと言いましたが、実は先がわからないままに物語を書き進めていって、あとから作者自身が、「えっ、そうだったの!?」と驚くこともたくさんあります。
(中略)
主人公を窮地に追い詰めてそこから何とか脱出させる、この先どうすればこれをクリアできるのかを毎回毎回考える、私はそんなふうに書いています。自分を追い詰め、主人公を追い詰めて、なんとか解決策を考えていけば、やがてそれは一つの小説になります。大丈夫。必死で考えればアイデアは出てくるものですから。

p141より

キャラクター、シーン、伏線。他にも色々あるが、それらの要素がそろえば、あとは「これしかない」というアクションをどうすれば起こるのかひたすら考えるしかない。本当に予想外なアイデアは、こういった土壇場でポンと出てくるものなのかもしれない。

  • 人を感動させるには。

  ドキュメンタリー番組の感動的なシーンでナレーターが泣きながらしゃべったとしたら、観ているほうは逆に感動できません。ナレーターが淡々としゃべるからこそ、観客はうわーっと泣けてしまう。小説の文章は、まさにこのドキュメンタリーのナレーションなんです。どんなに興奮するシーンや悲しい場面であっても、書き手が一緒になって地の文で感動したり、泣いたり、怖がったりしてしまっては、読者にはむしろ伝わらない。

p154より

いわゆる「テリング」の問題だ。上記のように、まるで感情を持っているかのような文章を、「笑った文章」ということがある。過剰なリアクションをしている人をみて、うそくせえなと読者が感じてしまうような状態が、小説でもまた起こる。