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小説家らしい独特な解釈が面白い「死なない生徒殺人事件―識別組子とさまよえる不死」感想

「永遠の命を持った生徒がいるらしいんですよ」生物教師・伊藤が着任した女子校「私立藤凰学院」にはそんな噂があった。話半分に聞いていた伊藤だったが、後日学校にて、ある女生徒から声をかけられる。自分がその「死なない生徒」だと言ってはばからない彼女だったが、程なく彼女は何者かの手によって殺害されてしまう―。果たして「不死」の意味とは?そして犯人の目的は!?第16回電撃小説大賞“メディアワークス文庫賞”受賞者・野崎まどが放つ、独創的ミステリ。

「不死」という物を取り扱う小説は数多あります。バトル物ならば特に、キャラの特徴としてはチョイスしやすいポピュラーな要素ですね。

主人公である伊藤は、とある女子校に着任してすぐ「永遠の命をもった生徒」のウワサを耳にします。最初は信じないながら、そのウワサはことある毎に彼の耳に入るにつれ立場上、命という物が何かを考え始める。

そんな彼の前に、ついにウワサの生徒と相対するが――。

という導入から始まるミステリはしかし、言うほど複雑な構造をしていない。登場人物はそれほど多くないし、すぐに答えも出る。しかしそれでも「不死」という物がなんなのか、主人公が答えに迫っていく様は淡々とした文章も相まって緊張感があります。

個性的なキャラクターが物語自体の舞台装置になってるのも面白い。どんでん返しに次ぐどんでん返しもなるほど、と唸ってしまいます。

死なない生徒についてことある毎に疑問を投げかけてくる同僚。不死な人と友達になりたい女生徒。自らを不死だと名乗る生徒。

キナクサイ。キナクサイよ!

けれども、彼、彼女らとのやりとりが軽快で、ズレていて、楽しいんですよね。

後半の静かな、一気に収束する物語はほどよい刺激になります。全体的に静かな、それでいてゾクっとする気持ち悪さ。

この手の物語を良く読む人にとってはありがちとも取られるかもしれませんが、軽く変な物語を読みたい人にはお勧めではないでしょうか。

【ネタバレ】落ち着いて見返すと味わい深い「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」二回目視聴感想

二回目です。見てきました。

やっぱりいいです。最高ですね。

相変わらずネタバレ全開です。全開から色々と心境が変化しました。落ち着いて見られる分気づいた所も多かったという所でしょうか。次の感想はBDがでたころにでも書くかなと思います。

【ネタバレ】色んな意味でファンに答えた「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」感想 | aoringo works

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OP、やっぱり良いですね。あの明るい音楽にほむらの絶望した感じ。最初、あれはTV版やこれまでの劇場版を圧縮した内容なのかなって思ったんだけれど、ちょっと違うかもしれないですね。ほむら自身の心境が現れている気がしますよ。

前半の流れは概ね前回と同じ感想でした。

まどかと抱き合い髪を結うシーン。あれは、そのままほむらの心境を比喩しているのでしょう。結われていくときは、まどかに甘えていた時の自分へ戻ろうとする流れ。けど、まどかの自然な吐露を聞いて、ほむらは改めて決意します。結果、髪は解ける。まどかのためにもう一度抗う決意をする。あの悲壮感。全てを受け入れる覚悟、そしてまどかさえも取り込むという決断。ほむらはついに、流されて祈った願いを自分の物にした。そんな感じですよ。

まどかを概念としてしまった、弱かった自分の否定。疲弊して、結局まどかを魔法少女にしてしまった、自分の。台詞だけでの吐露でしたが、それだけに静かに、重く、印象的なシーンとなりましたね。

この「まどかのために」というのがミソで。初見で見たときはあくまでほむらの自己中心的な考えでまどかと一緒になろうとしていたのだと思っていた。けど違う。ほむらはそんな子じゃないんだね。

あくまでまどかのために、まどかが普通に暮らせる世界を作るためにまどかの一部を奪ったんだ。だからほむらは、新しい世界を作った後もまどかときちんと向き合っている。神に戻ろうとするまどかを戻す。もしも今後神に戻るなら、敵となってでも、止める。

まどかの幸せのためにほむらは悪魔になった。きっとこれから、ほむらはまた、まどかのために抗う事となるのでしょう。ループの日々が始まるのです。さやかは魔法少女であることが示唆されていますが、まどかが魔法少女であるとは示唆されていなかったように思います。きっと、本当に一からやり直そうというのでしょう。ほむらはさやかに対して、そしてまどかに対しても敵対するような事を嘯いていますが、それこそが彼女の覚悟なのでしょう。目元の隈? も、おそらくは眠れぬ夜を過ごしているに違いない。優しい子ですね。

純粋な愛の物語に昇華したとも言えるかも知れない。あのほむらの「愛」という台詞は、まさに純粋な愛に違いない。独占的な愛ではなく、まどかの幸せを願った愛。そのためにはあの世界は必要で、さやかや他のメンツが巻き込まれるのもまた、必然だったと言えるでしょう。そしてまた、そのためにも自分は側にいないといけないと考えている。

TV版のエンディングではまどかが一人走っていたのが、今回のエンディングでは二人一緒に走っていく。この世界の未来では、そうなって欲しい。本当にそう思います。もう、ほむらは十分頑張ったと思う。

エンディング後のおまけ。きゅうべえを痛めつけているけれど、これは多分TV版最後との対比なのでしょう。ビルから落ちるところも同じ。ここからまた彼女の戦いが始まるという示唆。そしてきゅうべえは利用するためだけに存在するという示唆でもあり、不吉の象徴でもある。

笑っているのは、どういう事なんでしょうか。今度こそ勝ってやるという物語に対する勝利宣言でしょうか。今度こそ、私が主導権である、という。

今後考察も盛り上がるでしょうが、私はとてもシンプルなお話だと思います。ほむらの、まどかに対する思いの戦い。一度は挫けてしまったけれど、立ち上がるための物語だったのだと。

【ネタバレ】色んな意味でファンに答えた「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」感想

見てきました、まどマギ。そこまで熱心な視聴者ではなく、のほほんとTV版を見ていた方なのですが、大変興奮しました。面白かったです。

とにかく良い映画です。ある意味ではファンへの一つの答えとして提示される映画でした。

以下一切の遠慮はせずネタバレの嵐となりますので、実視聴の方はブラウザバックをお願いします。

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初っ端からワクワクするような始まりですね。各キャラクターの立ち位置が微妙に違うようのがわかり、さらに「ベベ」の存在に驚かされました。しかもそれがマミさんと一緒に暮らしてるとか。

OPも凄く良い。さわやかな歌に合わせてホムラが絶望しているところとか、凄くこれからの展開を示唆していて一筋縄じゃいかない感じを思う。けどなんかこう「これこれ、これだよな『まどマギ』って」みたいな感覚になるのは、多分ファンがこれまで色々と想像した「まどマギ」像からブレてないから。

全体的に、私たちが妄想したりしている展開を全て詰め込んだような風。「これだろ? これがみてえんだろ? 全て詰め込んでやる!」・・・。ここらへんはエヴァ劇場版の上から見下ろして笑うような感じではなく、一緒に堕ちましょう(楽しみましょう)と誘ってくるような、そういう感じ。そうやって考えると、真の意味はわからないけれどあのケーキの歌の下りとか、食べさせられてるのは私たちまどマギファンなのかなとか思ったり。メタ読みしすぎるとキリがないけれど、あの閉鎖された空間で、全員からそれぞれのトッピングされたケーキを頬張るあの姿。重なるよね。

ガンカタ勝負むっちゃくちゃかっこよかったです。あのシーンをもう一度見るためだけにもう一度見に行きたいですね。結局殺せず足を打ち抜こうとする所とか、ほむらの迷いが見れるシーンを入れたのがグットです。

多分さやかが諭す前、あそこくらいから心の底ではわかってて、必死に否定していたんだと思う。だから迷った。ベベを即倒さなかったのも、まどかの前でいきなり変身して見せたのも、全部邪魔を誘うための小さな隙だと思った。さやかやベベ、そしてまどかを誘ったのも実際にはほむら自身だし。

思い返すと、ここで何故ほむらが異変を察し、事実を追い求め始めたのかがわかる。全てはまどかと一つになるため。そうしないとまどかの存在をなんで疑わないのかが説明つかないからだ。他の杏子やベベは疑っているのに、何故まどかは疑わないんだ? ベベの記憶があるなら、まどかのために戦ってきた記憶もあるだろう。そこにまどかがいる事。もしもほむらが本当に事実を追い求めているならまずまどかを疑ったはず。少なくとも心の深いところでは理解していたと私は解釈した。

そしてまどかの考えを聞き、ほむらの心情が風景として表れる。あのシーン良いですね。実際ほむらの中でどういう感情が芽生えたのか。けど、少なくともほむらはまどかをどうにかしようとは思ったんだ。

さやかの魔女化はキター!って感じですね。良いですね。ワクワクしますよ。そして色々と繋がってきます。

まど神シーンは、ほとんどの視聴者にとっては、これだ!! これだよ!! と思ったに違いないですが、「けどできないよなー」とも思ったシーンであると思います。今回の映画は本当にファンが見たかった物が詰まっていますね。物語としてはある意味では反則ともいえるセオリー外し、「ここでこうなったらおもしれえよなあ」をやってくる。本当に感動しましたよ。しかもこれが綺麗にまとまっている。

最後の長いエピローグもよかった。良い余韻です。ほむらのすさんだ目つきも良い。悪魔になっても、けれどもなりきれない感じ。素敵ですね。結局はさやかやマミさん、杏子たちと一緒に居る。ほむらの本質は結局変わらないっていう弱さが見れます。まどかのために、そういう存在になれて幸せ・・・。と言い聞かせているような痛さ。ゾクゾクします。これでいいんだ。というような笑い。

私は常々、TV版は物語のためにキャラがあると思っていました。この物語をするためには、キャラクターはこういう感情をいだかないといけない、というような。だからこそほむらは純粋な感情を突き進めてまどかを救おうと足掻いたし、さやかは魔女になった。物語上ここではこうしないといけない。そういう縛られたキャラクター達だった。

だからこそ、ほむらのまっすぐな感情は私たちに歪んで見えた。沢山の二次創作で、ほむらが変態として描かれた。そしておそらく製作陣にもそう見えた。か、それならこれを推し進めようと思ったんじゃないかな。

結果的に、物語から抜け出してキャラクター達は自分を得た。今回の映画はそういう風になっている印象を受けました。物語を終えて、放り出されて感情を強制されたキャラクター達はいったいどうなってしまうのか。その果て。ほむらが作った空間で、仁美がああなった所は過去の彼女達を見ているようだった。物語のために操られている感じだ。そんなことでなるのか? というのは言い換えると、そこでそうならないといけないと強制されているのだから。

この後、彼女達はどうなるんだろうね。気になるけれど、描かれるのだろうか。アニメ化するかな? してほしいな。

ところで、またまどマギはコミカライズをまたやるのかしらね。沢山だされても追いかけられないし、逆にそれがファン達を分散させている結果になっているようにも感じる。そして、たとえコミカライズで枝葉を分けてもどうしても同人的というか、二次創作的というか・・・・。まあ仕方ないんだけどね。もやもやっと。

ともあれ映画はとても楽しかったですよ。また見に行こうっと。

【ネタバレ】落ち着いて見返すと味わい深い「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」二回目視聴感想 | aoringo works

二度目視聴の感想も書きました。

いくつにも重なるレイヤーが瓦解する恐ろしさ「リライト」感想

過去は変わらないはずだった―1992年夏、未来から来たという保彦と出会った中学2年の美雪は、旧校舎崩壊事故から彼を救うため10年後へ跳んだ。2002年夏、作家となった美雪はその経験を元に小説を上梓する。彼と過ごした夏、時を超える薬、突然の別れ…しかしタイムリープ当日になっても10年前の自分は現れない。不審に思い調べるなかで、美雪は記憶と現実の違いに気づき…SF史上最悪のパラドックスを描く第1作。

目まぐるしく主観が変わり、まるで振り落とされそうな速度を出しながらも伏線が積み上がっていくが、あくまで物語は淡々と進行する。

いったいどこに着陸するのだろうとのんびり構えていると、最後の最後であざ笑うかのような結末が待っている。

タイトルにもなっているリライト。過去が上書きされ、未来が知らず知らずに変わっていく恐怖に主人公はさらされる。しかしどうする事もできずに時間だけが過ぎていく。その焦燥感とやきもきさったらない。ページが少なくなるにつれてこの物語はどこに行くのかまったく分からず、伏線はさらに積み上がる。

十年前の思い出。未来人と自称する男の子との出来事。そして今、来るはずだった過去の自分。本。同窓会。アルバム。殺人事件。

まるでフィルムが折り重なったように立体的になったところで、衝撃的な結末、リライトの意味、全ての始まりが明らかになるのだが、まるでハンマーで振り下ろしたかのようにグチャグチャに散らばって開示される。そこから全ての断片の整理が始まる。本当の意味でのSFサスペンス。読んだ後にここまで読了感の無い本も珍しい。すぐに最初のページを開き、二週目を読んでしまった。人によれば三週目に入る事もあるだろう。

軽い読み味に、しかし複雑に積み上がる伏線の数。このシリーズは全てで4冊出る予定があるようだ。「リライト」がこの先どのような広がりを見せていくのか。楽しさと恐ろしさを感じながら待とうと思う。

物語における「リアリティ」はどこまで追求するべきか

はじめに

まあ簡単な思考実験なようなもので、特にライトノベルはRPGゲームなんかによくある特殊能力についての思考実験であります。

たまに物語を評価するときに「リアル」ではないからという理由で否定する人がいます。おそらくその人にとっては、リアルであるかないかが「おもしろい」か「おもしろくない」の基準になるのでしょう。

御坂美琴はどのような能力を所有しているのか

たまたま目に付いたこの娘で考えてみようと思う。

御坂美琴は「とある科学の超電磁砲」の主人公で、発電系の能力の持ち主。

有する能力はレベル5の発電系能力「超電磁砲(レールガン)」。

発電能力における最高の能力であり、他の同系統能力者とは別格の強さを誇る。後述のように多彩な攻撃技や様々な応用も利くオールラウンドな能力である。

基本となる攻撃は速度と連射性に優れた直接電気を放出する電撃。作中ではよく高圧電流の槍を投げつける「雷撃の槍」を使用しており、最大電圧は10億ボルト。落雷を落とすことも可能。

御坂美琴 – Wikipedia

能力の詳細はこんな感じ。

どういう原理か

良く見る「超電磁砲(レールガン)」は指でコインを弾いて電磁加速を加えて敵を攻撃するものだが、電磁加速というからには、おそらく原理的には「コイルガン」のようなものだと思われる。イメージ的にはトンネルのように電界を作って、その中をコインを潜らせるのだ。空気中の酸素濃度が湿度を自在に操る必要がある。

コイルガン – Wikipedia

現実にある「レールガン」は、電位差のある電気を流したレールの間に弾丸となる物体を置き、そこに電流が流れることによって発生する磁場によって発射される兵器だ。御坂美琴の小さな手では、レールとしては距離が短すぎる。

レールガン – Wikipedia

仮に彼女の技が「レールガン」の原理によって発動していた場合のことを考えてみようと思う。

急激に加速するコインの衝撃に耐えられる耐爆能力。摩擦による熱を防ぐ耐熱能力。一極集中しても皮膚が破裂しないために絶縁性能、耐電能力。電流をスムーズに移動させる導電能力。周囲に放電しないための空気濃度、もしくは湿度変化能力。

身体的にも、彼女の筋肉、骨はスーパーマンなみに強力な可能性がありそうだ。

他にも周囲にある鉄を自由に浮遊させたり、砂鉄を操ったり。はては空気中の水分を利用して加速浮遊移動を行えたりするらしい。マグニートー真っ青ってレベルじゃない。

と、計算はしなくても彼女の能力がどれだけ半端無いのかを推し量ることはできる。しかし、物語の「楽しさ」に、こういった視点は必要だろうか? 一度立ち止まって考える必要があると思う。

同様の問題はゲームなどにもある

あるFPSゲーム(一人称視点で銃を持ってお互いに打ち合う対戦ゲーム)には銃弾が部位に当たる事によって「負傷する」という要素があった。肩に当たれば命中精度が下がり、足に当たれば走れなくなる。顔に当たると血で視界が悪くなってしまう。血が流れれば早く止血しないと死ぬ。などだ。

そのゲームが果たして流行ったかというと、最初はニッチな人気は得たが、最終的にはバランス調整に失敗。過疎の一途であった。リアルを求めるとゲームとしての「楽しさ」とのバランスをとるのがとても難しくなる。

時には現実的な思考は邪魔になるという良い例だと私は思う。

まとめ

創作をしていると、どうしても能力を現実的な面から考えてみたくなる事がある。そういうときに「これだけリアルにしたんだ。おもしろいに違いない」と考えるのは思考のループに陥りがちだ。敵の能力は? 味方の能力は? 倒し方は? 矛盾していないか・・・?

最終的に、人に見せる前にストーリーライン上に矛盾が生じて、筆を進める事が出来なくなる。自分の物語に自分が殺されてしまう。そして、そうやって完成した物語は果たしておもしろいのかどうか・・・?

もちろん、それ相応の膨大な知識量に支えられた緻密な物語は確かにある。かなりの労力が必要なのは明白だけれども。

いつだって問題はトレードオフだ。あちらを立てればこちらが立たない。説明に終始すれば物語は進まない。物語に終始すれば説明がおろそかになる。意識的にバランスを計る必要がある。

とにかく大迫力・息継ぎなしのロボットアクション「パシフィック・リム」感想

大ヒット上映中! 3D/2D同時上映|映画『パシフィック・リム』公式サイト

近未来。太平洋の奥深くにある海溝から突如巨大な生物が現れ、世界各国の主要都市が次々と襲われた。「カイジュウ」(怪獣)と呼称される謎の巨大生物たちの圧倒的な力を前に、人類は滅亡の危機に瀕する。国際的な軍事組織、環太平洋防衛軍は最終手段として、パイロットと神経を接続して動く2人乗りの巨大ロボット「イェーガー」を稼働させ、カイジュウ退治に向かわせた。対怪獣戦争のはじまりである。

とにかく迫力のある映画がみたい! と思ったら今年はもうこの映画意外にないだろう、と思うほどに出し惜しみしない映画だ。

目まぐるしい程にシーンが進み、戦闘、戦闘、戦闘!!

冒頭一分からカイジュウが出現してからノンストップ。スピードマックス。監督はこの映画を「目のプロテイン」と表現したけれど、まさにという感じ。

その分細かな所に粗が見受けられるものの、そんな事を気にしてたら負けだ。カイジュウは怪獣らしく動き回り、ロボはロボらしくガショガショ駆動する。それぞれ特徴があって実に良い。突拍子の無い設定が目白押しで、特撮ファンはきっとこういうのたまらないのだろうなと思う。音楽も素晴らしく、ゴジラの登場シーンを彷彿とさせるような曲調はきっとリスペクトなのかなとか思ったり。

吹き替え版は声優の方々が熱演していて無理なく物語にのめり込めるし、贅沢な娯楽映画が出来たものだ。

話題になった芦田愛菜の演技も見事。「ママ」の一声に胸が締め付けられる。

総じて、満足度が高く手放しで見る事が出来る映画だった。

ハードな世界感ながらもキャラクターの奇抜さが光る「ブラッド・クルセイド」感想

死から蘇り、永遠に生き、人の血を啜るもの―吸血鬼。彼らの決して満たされない飢えと欲望によって破壊されていく世界を守るため、狩人は夜を駆ける。狩りの終わりに待っているのは、死よりも忌まわしい運命だと知りながら。これは人類の曙から連綿と続く隠された闘争。その継承者たちの物語が、いま幕をあける。

緊張感に押しつぶされそうになるゲームプレイ

冒険企画局からリリースされるサイコロ・フィクション。リプレイとルールが一冊にまとめられており、空気感を味わいつつセッションに挑めるとても良心的なシリーズだ。そのシリーズの一つであるブラッド・クルセイドは吸血鬼と狩人たちの物語。

吸血鬼といっても、「ヘルシング」に出てくる吸血鬼たちなみに知力に富み、剛力を振るい、神速で襲いかかってくる。生半可なキャラを作ると簡単に弄ばれ殺されてしまう。そういう意味ではかなり人を選ぶタイトルにはなってしまっていると思う。実際、私が初めて経験した「ブラッド・クルセイド」では全滅の憂き目にあった。しかし、そこから生まれる絆、連携、達成感はまさに格別だとも思える。

吸血鬼を追っているはずが、道中で血を吸われたり、幸せの象徴である心のあり所を破壊されたり。一切の気の緩みも許されない。

強大な敵に立ち向かい、ボロボロになりながらも剣を振り上げ、渾身の一撃で葬る。そんなハードな世界感を体験したいなら、このTRPGタイトルはまさにお勧めだ。

個性的な面々

サイコロ・フィクションは基本的に行動とロールプレイがワンセットだ。アイテムを探す、という行動をするとしたら「どういった手段で、どのように」と理屈を通さなければならない。そういう意味で、PLもGMも皆で一つの物語を組み上げていくという実感が一層強まるゲームシステムだと私は思う。

本書のリプレイを見ると、面子の方々が作り出したキャラクターは本当に個性豊かだ。厨ニ病に染まった弓使い、復讐に燃え精神が不安定な釘使い、己の血を呪い自ら動くことを拒絶した人形使い、家と血筋とプライドで自分を固める剣使い・・・。妄言に妄言を上乗せするような会話劇は本当に面白い。

そして、一見ハードすぎる世界感も、尖ったキャラクターたちによってどこへ進むのかわからない一種の緊張感を生み出している。

個人的に面白いのは、手酌によるシーン進行を皆でどんどん膨らませている所だ。

PLの一人であるゼロは、吸血鬼の手下である一人を戦闘前に闇討ちする。GM以外は皆PLだ。

ゼロ◆《待つ》行為判定/成功

ゼロ:当てた。

GM:佐藤はコンビニ前で煙草を吸いながらしゃがんでる感じだったんですよ。

銃児(佐藤):「マジ真さんスゲェから。あの人は世界クラスだよ」

ミナ:ひゅるるるるるる。

ヒルコ(取り巻き):「佐藤さんよりツエーとか信じられねえッスねえ」

銃児(佐藤):「ばっかおっめ」……矢がドブっと。

ゼロ:壁に縫い止める感じ。

銃児(取り巻き):「うわー、さ、佐藤さんが標本のモンシロチョウみてえに!」

ミナ(取り巻き):「抜けねえ!」

ヒルコ(取り巻き):「具体的には次の戦闘に出られねえほど抜けねえ!」

ブラッド・クルセイド p58より

こういった掛け合いが多く展開される。時には自分以外のPCのロールにまで及ぶことも。プレイスタイルにはいくつもあると思うが、このような遊び方がされているのは初めて見たので、私としては「そっか、これって良いんだ」と新しい発見ができた。(私はまだTRPGを初めてまもないので、こういった掛け合いがされているリプレイは多々あるかもしれないが)

場の雰囲気も勿論あるだろうが、できることならこういう遊び方は一度やってみたいところだ。

サイコロ・フィクションは説明が難しいTRPGシステムジャンルだ。リプレイを読むだけでは中々何が起こっているのか把握しづらい。この本もリプレイ部分ではどうにもイメージしにくい所はある。それでも、TRPGの一つの遊び方を提示できているのは凄いことだと思う。

確かに感じられる生々しさ「リング」感想

同日の同時刻に苦悶と驚愕の表情を残して死亡した四人の少年少女。雑誌記者の浅川は姪の死に不審を抱き調査を始めた。――そしていま、浅川は一本のビデオテープを手にしている。少年たちは、これを見た一週間後に死亡している。浅川は、震える手でビデオをデッキに送り込む。期待と恐怖に顔を歪めながら。画面に光が入る。静かにビデオが始まった……。恐怖とともに、未知なる世界へと導くホラー小説の金字塔。

なぜ今更「リング」なのかと言われれば、夏らしい本を読みたくなったのと、映画「貞子3D2」がやることを耳にしたからに他なりません。

日本で一番名前が知られている幽霊、貞子。

原作ではどのような存在で描かれているのか、今更ながらが気になったのです。

読みやすい文体の中に潜む生々しさ

さらりと読めてしまう文体はぐいぐいと物語へと読み手を誘い入れる。しかし、そこには確かに得体の知れない生臭さを感じ取ることが出来る。忘れた頃に挿入されるどうしようもないほどの生活感。匂いすら発しそうな描写。そしてビデオ。

この物語は、主人公「浅川」から見た貞子の分析録だ。自分を守るため、そして家族を守るためにもがいた一週間が濃密に収まっている。

彼は確実に貞子へと近づいていき、その輪郭を浮き彫りにさせていく。

一週間で死ぬビデオを中心に、「貞子」をも巻き込んで目まぐるしい速度をもって物語が展開される。

絡み合う人と人

表題にある「リング」の通り。この物語は人同士の繋がりが重要になる。

それぞれの思惑、それぞれの行動が密にリンクしあい、一つの惨劇とも言える終末へと向けて転がっていく。謎が謎を呼び、その謎が新たな人物を引き寄せる。そうして、まるで終わりが無いかのようにどこまでも深くなっていく。

それはあまりにもサスペンスめいていて、いつの間にか這い寄る恐怖よりも、真相を知りたいという欲求が勝ってくる。

浅川たちが出した結論は果たして正しいのかどうか。最後の怒濤の展開は、言わずもがなだ。

キャラクターの特徴を決定づける「役割語」についての雑感

創作、特に小説を何作も作っていると、キャラクターについて思い悩む時がある。

「~なのよ」「~ですわ」「にゃんと困ったにゃ」・・・。

ほとんどの人がこの「役割語」について、ふと、違和感というか、不自然さを覚えるのではないだろうか。

役割語の効果を改めて知る

そもそも役割語とは何か。

様々な物語作品やメディア作品(外国語作品の翻訳も含む)、特に子供向け作品やB級作品において、老人は「そうなんじゃ、わしは知っとるんじゃ」、貴婦人は「そうですわ、わたくしは存じておりますわ」のような言葉遣いを用いる。そのような言葉遣いの老人や貴婦人は現実にはほとんどいないが、日本語話者であれば言葉遣いを見聞きするだけで「老人」「貴婦人」のイメージを自然に思い浮かべることができる。これらは物語作品やメディア作品で繰り返し使われることで、特定のイメージが社会で広く共有されるに至った言葉遣いである。物語の中で、老人としての役割を担う登場人物は老人の役割語を、貴婦人としての役割を担う登場人物は貴婦人の役割語を話すのである。

via: 役割語 – Wikipedia

つまり役割語とは、「読者がそのキャラクターをイメージするための手がかり」の、文字通り役割を果たす。

例えば違和感に負けて、キャラクターを、自然に、現実にいるような言葉使いで喋らせてみようと思う。

「それじゃあ、お前がやってみるといい」
「え? なんでそうなるの? 私はそもそも乗り気じゃなかったし。ミキやりなよ」
「私? 意味わかんないし。お前が勝手に話を進めてたんじゃん」
「らちがあかないな」

良くある口論の典型的な会話だが、ここに居るのは「何人」で、どの「性別」だろうか。ぱっと見ではわからない。ここで、役割語を設定してみる。

「それじゃあ、お前がやってみるといいぜ」
「え? なんでそうなるのよ。 私はそもそも乗り気じゃなかったしー。ミキがやりなさいよ」
「あたし? 意味わっかんない。あんたらが勝手に話を進めてたんじゃん。今更話ふらないでよね」
「らちがあかないニャ~」

ぐっと分かりやすくなった。ここには四人のキャラクターが居ることが明白だ。女性が二人、男性が一人、猫(もしくはそれに準じた何か、もしやもするとそんな口調の変人)が一匹。さらに女性の一人は名前も分かっている。

誰が喋ったのか。地文で説明せずとも、読者はするりと理解し読む事が出来る。これは大きなメリットであり、そして技術だ。

会話の途中で挟まれる「~がそう言った」「と~が笑った」といった地文は多くなるとテンポを乱し、障害になり得る。役割語はその地文を大幅に省略する力を持っている。

役割語はキャラクターを表す

どのような役割語を持っているかによって、そのキャラクターの「性質」を表す事が出来る。

「~ですわ」というキャラクターはお嬢さまで、ほとんどの場合は高飛車・ツンデレ。「~じゃ」はおじいちゃん、博士。「あんまり少し」が口癖なら理屈っぽくて煙に巻くような性格かもしれない。「良く分かんないが分かったぜ!」バカ、単純、熱血。「~にゃ」猫、自分勝手。

その上でどういうキャラクター回しをするのかは人によるだろうが、商業作品、特に「ライトノベル」で活躍している人たちはこの役割語が設定されたキャラクターを操るのが抜群に上手だ。「単純にそのキャラクターにその役割語が設定されているから、こういう性格でこういう行動をする」というだけでは終わらず、そこからさらに個性を継ぎ足して深みをつけている。

例えば「ノーゲーム・ノーライフ」は、ゲームが全ての優劣を決める異世界での冒険劇が繰り広げられる。その冒頭、有り金を全て巻き上げられた貴族の娘が、主人公に食ってかかるシーンがある。

主人公である「空」は、負け込んでいる「~ですわ」口調の少女「ステファニー」をわざと怒らせようと口を開く。

「あの程度のイカサマも見破れず、挙句八つ当たり……しかも子供に図星を突かれていちいち怒りを顔に出すーまったく短絡的。コレが旧国王の血筋なら負け込むのも当然だ」
 ――と。
 知能の低い動物を哀れ見るような目で、そう言う空に。
 ステファニーの目が見開き、続いて怒りに表情を震わせて睨む。
「………………撤回……しなさい」
「撤回? はは、なんで?」
「私はともかくー御爺様まで愚弄するのは許しませんわっ!」

―― ノ-ゲーム・ノーライフ1 ゲーマー兄妹がファンタジー世界を征服するそうです p75

典型的な高飛車、貴族、ですわ口調なキャラクターであるとここで色濃く提示される。そして恐らく「ツンデレ」であるとも。

さて、この小説が面白いのは、ゲームで勝った方が負けた方に好きな要求ができるという設定にある。これによって人はもちろん、国さえも賭の対象にされてゲームが行われている異世界だ。

主人公はそんな異世界に落とされて右も左も分からない。しかしゲームの天才である主人公は、この少女を最初の対戦相手として勝負するため挑発している。

「――賭けるのは、何ですの?」
 話が早くて助かる――とでも言いたげに、にやぁと、空が笑って答える。
「おまえが勝ったら、おまえの要求を全て呑もう。おまえが負けた理由、イカサマの真相を教えてもいいし、愚王のジジイを侮辱した罪で、死ねというならそれも仕方ない」
「…………このッ」
「――で! 俺が勝ったら。逆におまえが、俺の要求を全て呑むわけだ」
 楽しそうな、だが氷より冷たい表情に、不気味に笑みを張り付かせて。
 下品にも、醜悪にも、そして――冷酷にも思える口調で、こう続ける。
「こっちは命を賭けるんだ――そっちも、貞操とか色々、賭けてもいいだろ?」
 頭に上った血が、寒気に引いていくのを感じるステファニー。

―― ノ-ゲーム・ノーライフ1 ゲーマー兄妹がファンタジー世界を征服するそうです p77

一瞬、少女は冷静になる。しかし、血筋のプライドもある少女はこの勝負を飲み、そして負ける。そこでの主人公の敗者に対する要求も大変面白いので、続きは是非とも本を手にとって貰いたい。

さて、役割語の手伝いによって、少女の反応が実に「わかりやすい」のがわかるはずだ。そのキャラクターがどういった反応を返すのか、どういう条件をのむのか、どのような言葉に感情を隆起させるのか。主人公の心理的な描写はほとんどないが、何を狙い、どこに話を持っていこうとしているのかはなんとなく伝わってくる。

役割語はその時の空気感すら演出してみせる力を持っている。それが理解して、上手く扱えるようになれば深みがあり、面白みのあるキャラクターが生まれるはずだ。

役割語からのギャップ

これも重要な事でもあるが、役割語自体をフックとして、ギャップを生み出す事は可能なのだ。

老人言葉を喋る幼女、猫のような言葉使いで喋るマッチョマンなどなど。役割語からあえて外れたキャラクターは意外と多い。そのインパクトたるや。

多重人格や、体の中に別人格がいて、その変化で口調が変わったりするのは文章としては大変分かりやすい物だ。容姿が変わったとしても、言葉に表れなかったら表現の難易度は上がる。

さいごに

このように、役割語はそのキャラクターを集約するのと共に、深めるためのギミックとして扱う事も出来る大事な要素だ。

キャラクターを作るときは、是非とも「口調」や「口癖」を設定してみてほしい。そのキャラクターがとたんに生き生きとしてくるはずだと、私は思う。

荒々しさが皮肉にもコンパクトにすっきりと「同人王」感想

概要

特に努力もしたことがなく、人付き合いも破滅的に悪く、しかしプライドだけは高く。典型的なダメ人間であるタケオはズブズブと人生のどん底に落ちていく。

その中で、ついに出した自身への答えが「同人誌」を出して稼ぐ事。

タケオの人生最大の賭けが幕を開ける。

典型的なサクセスの皮を被ったリアル

タケオの向こう見ずな行動や思考は、しかし創作における私たちの無意味な自信やプライドに通じるところがある。

物を作るという行為それ自体が私たちに及ぼす精神状態。その様を見事に、リアルに描いて見せているのはさすがといったところ。

しかしお世辞にも、単純なサクセス物としてこの本を読むとあまりにもご都合主義であり、淡々と時間軸が進む。枝葉が分かれていないシンプルな話の流れは、あまりにもタケオの成長がまっすぐ描かれて過ぎているのだ。伏線や目立たせたいコマがさらりと流れていき起伏に乏しいとさえ思えてしまう。

一方で「こういうものなんだよな、うんうん」というじんわり来るものも確かにあるのだ。創作ってそういうもんだよな。わかる、わかるよ。回りは天才で、俺は自分を信じることでしか自我を保てないんだよ。なんといわれようと、心の中では俺が一番だと思い続けてないとガラガラ崩れそうなんだよね。・・・みたいな。

著者の魂の声が聞こえるか

web漫画独特の荒々しさ、蛇足感、無駄ゴマがあまり見受けられない。スッキリ。コンパクト。その理由はあとがき漫画に描かれている。

そこには著者がweb連載時に感じていた葛藤や苦悩が赤裸々すぎるほどにつづられている。その数ページの濃さといったら。まるで濃縮された呪詛だ。ドロドロとした感情が煮詰まり、ぶちまけられているように思う。それでも最後に「ありがとう」と言ってのけた著者に拍手を送りたい。

そうして出来上がったと知ったこの本を、もう一度最初から読み返すとまた違った味わいを感じる。私はこの物語がたまらなく愛おしい。

何度も何度も叩いて作り直された物語は、残念ながらコンパクトにまとまってしまった、というのが私の印象だ。

それでも、この作品に魂が詰まっているのを確かに感じる。