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【ネタバレ】色んな意味でファンに答えた「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」感想

見てきました、まどマギ。そこまで熱心な視聴者ではなく、のほほんとTV版を見ていた方なのですが、大変興奮しました。面白かったです。

とにかく良い映画です。ある意味ではファンへの一つの答えとして提示される映画でした。

以下一切の遠慮はせずネタバレの嵐となりますので、実視聴の方はブラウザバックをお願いします。

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初っ端からワクワクするような始まりですね。各キャラクターの立ち位置が微妙に違うようのがわかり、さらに「ベベ」の存在に驚かされました。しかもそれがマミさんと一緒に暮らしてるとか。

OPも凄く良い。さわやかな歌に合わせてホムラが絶望しているところとか、凄くこれからの展開を示唆していて一筋縄じゃいかない感じを思う。けどなんかこう「これこれ、これだよな『まどマギ』って」みたいな感覚になるのは、多分ファンがこれまで色々と想像した「まどマギ」像からブレてないから。

全体的に、私たちが妄想したりしている展開を全て詰め込んだような風。「これだろ? これがみてえんだろ? 全て詰め込んでやる!」・・・。ここらへんはエヴァ劇場版の上から見下ろして笑うような感じではなく、一緒に堕ちましょう(楽しみましょう)と誘ってくるような、そういう感じ。そうやって考えると、真の意味はわからないけれどあのケーキの歌の下りとか、食べさせられてるのは私たちまどマギファンなのかなとか思ったり。メタ読みしすぎるとキリがないけれど、あの閉鎖された空間で、全員からそれぞれのトッピングされたケーキを頬張るあの姿。重なるよね。

ガンカタ勝負むっちゃくちゃかっこよかったです。あのシーンをもう一度見るためだけにもう一度見に行きたいですね。結局殺せず足を打ち抜こうとする所とか、ほむらの迷いが見れるシーンを入れたのがグットです。

多分さやかが諭す前、あそこくらいから心の底ではわかってて、必死に否定していたんだと思う。だから迷った。ベベを即倒さなかったのも、まどかの前でいきなり変身して見せたのも、全部邪魔を誘うための小さな隙だと思った。さやかやベベ、そしてまどかを誘ったのも実際にはほむら自身だし。

思い返すと、ここで何故ほむらが異変を察し、事実を追い求め始めたのかがわかる。全てはまどかと一つになるため。そうしないとまどかの存在をなんで疑わないのかが説明つかないからだ。他の杏子やベベは疑っているのに、何故まどかは疑わないんだ? ベベの記憶があるなら、まどかのために戦ってきた記憶もあるだろう。そこにまどかがいる事。もしもほむらが本当に事実を追い求めているならまずまどかを疑ったはず。少なくとも心の深いところでは理解していたと私は解釈した。

そしてまどかの考えを聞き、ほむらの心情が風景として表れる。あのシーン良いですね。実際ほむらの中でどういう感情が芽生えたのか。けど、少なくともほむらはまどかをどうにかしようとは思ったんだ。

さやかの魔女化はキター!って感じですね。良いですね。ワクワクしますよ。そして色々と繋がってきます。

まど神シーンは、ほとんどの視聴者にとっては、これだ!! これだよ!! と思ったに違いないですが、「けどできないよなー」とも思ったシーンであると思います。今回の映画は本当にファンが見たかった物が詰まっていますね。物語としてはある意味では反則ともいえるセオリー外し、「ここでこうなったらおもしれえよなあ」をやってくる。本当に感動しましたよ。しかもこれが綺麗にまとまっている。

最後の長いエピローグもよかった。良い余韻です。ほむらのすさんだ目つきも良い。悪魔になっても、けれどもなりきれない感じ。素敵ですね。結局はさやかやマミさん、杏子たちと一緒に居る。ほむらの本質は結局変わらないっていう弱さが見れます。まどかのために、そういう存在になれて幸せ・・・。と言い聞かせているような痛さ。ゾクゾクします。これでいいんだ。というような笑い。

私は常々、TV版は物語のためにキャラがあると思っていました。この物語をするためには、キャラクターはこういう感情をいだかないといけない、というような。だからこそほむらは純粋な感情を突き進めてまどかを救おうと足掻いたし、さやかは魔女になった。物語上ここではこうしないといけない。そういう縛られたキャラクター達だった。

だからこそ、ほむらのまっすぐな感情は私たちに歪んで見えた。沢山の二次創作で、ほむらが変態として描かれた。そしておそらく製作陣にもそう見えた。か、それならこれを推し進めようと思ったんじゃないかな。

結果的に、物語から抜け出してキャラクター達は自分を得た。今回の映画はそういう風になっている印象を受けました。物語を終えて、放り出されて感情を強制されたキャラクター達はいったいどうなってしまうのか。その果て。ほむらが作った空間で、仁美がああなった所は過去の彼女達を見ているようだった。物語のために操られている感じだ。そんなことでなるのか? というのは言い換えると、そこでそうならないといけないと強制されているのだから。

この後、彼女達はどうなるんだろうね。気になるけれど、描かれるのだろうか。アニメ化するかな? してほしいな。

ところで、またまどマギはコミカライズをまたやるのかしらね。沢山だされても追いかけられないし、逆にそれがファン達を分散させている結果になっているようにも感じる。そして、たとえコミカライズで枝葉を分けてもどうしても同人的というか、二次創作的というか・・・・。まあ仕方ないんだけどね。もやもやっと。

ともあれ映画はとても楽しかったですよ。また見に行こうっと。

【ネタバレ】落ち着いて見返すと味わい深い「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」二回目視聴感想 | aoringo works

二度目視聴の感想も書きました。

「パシフィック・リム」爆音上映会の日程が決まりました!

Tweetvite :: パシフィック・リム爆音上映会 in 立川 9/29 ガイドライン

日程は9月29日!

チケットの販売は9月7日の00時からです!

前回の希望者を集めるツイートバイトでは速攻400人近くの人が集まりました。ぼやぼやしているとすぐに買えなくなっちゃいますよ!

映画館での興奮をもう一度。抑えきれない熱をぶちまけるためにもう一度!!

チケット買えるかなあ、ドキドキです。

叫べロケットパンチ!「パシフィック・リム」貸しきり上映会が企画されたようです

この少ない文字数からも伝わる暑さ。まさしく愛ですね。

映画館を貸しきっての上映会なんて、ニュースサイトなんかで見るだけでしたが。パシフィック・リムのためならどこへでもいくぜ!

シネマシティ|立川シネマ・ツー&シネマシティ

場所はここかな。

現在応援者絶賛募集中みたいですよ!!

と思ったらもうリツイートされまくってすさまじい速さで企画が詰められているようです。

週明け情報解禁! 黙して待つぜ。

映画で気になった点や細かい設定などは小説の方でかなり詳しく記されているようです。細かい日程が決まったら予習して挑むぞ。

隅々まで行き渡る余裕とかっこよさ「オーシャンズ11」感想

「4年の刑期を終え、仮釈放されたカリスマ窃盗犯ダニー・オーシャンは、すでに次なる標的を決めていた。それは、ホテル王ベネディクトが経営するラスベガスの3大カジノ“ベラージオ”“ミラージュ”“MGMグランド”の巨大地下金庫に眠る総額1億5000万ドル!計画遂行のためにオーシャンがスカウトしたのは、頭の切れるいかさまトランプ師ラスティーをはじめ、スリの達人ライナス、爆破の達人バシャー、元カジノ・オーナーのルーベン、メカに強いバージル&ターク兄弟、カード・ディーラーのフランク、元詐欺師で変装の達人ソール、配線のプロであるリビングストン、アクロバットの達人で中国系アメリカ人イエン。かくして11人のスペシャリストたちによる犯罪ドリームチームが誕生した!

難攻不落のカジノにスペシャリスト11人が挑む! それだけでワクワクしますが、映画自体は淡々と歩を進めるなんとも不思議な映画。一人一人にキッチリ見せ場もあって良い。

一つ一つの伏線はサラリと流れてのしまい、ほほんと見てると重要な事を見逃してしまう。一秒たりとも気が抜けないのだが、画面からあふれ出る余裕さが本当にカッコイイ。個性的なキャラクターも、それ自体が伏線になっている。恐れ入る。合間に入れるコメディ的なシーンもほどよく笑える。

こういう泥棒ものは、視聴者すらもミスリードしてくれるのが常だが、この映画も類い漏れずやってくれるのが良い。

敵も冷徹。表情を一切変えずに恐ろしさが伝わってくるようだ。全体的に、雰囲気作りと理屈と伏線が綺麗に積み上げられている。何度も見てしまうスルメ的な楽しさがある。

いいね、やっぱりこういうのも。

[ネタバレ]しかしどうしても気になる「パシフィック・リム」の細かい所を突っ込む

大ヒット上映中! 3D/2D同時上映|映画『パシフィック・リム』公式サイト

ネタバレですよー

感想にて、「細かい所を気にせず楽しめば良い」なんて言いましたが、まあ、やっぱり下手の横付きで要らない茶々を入れたくなるのが人間でありますよね。(とにかく大迫力・息継ぎなしのロボットアクション「パシフィック・リム」感想 | aoringo works

投げた後追撃しようよ

イェーガー達はとにかく投げ技とパンチ大好き。特に中国のイェーガーは格好良く敵を投げ飛ばします。しかしただ投げただけでダメージがあるようにはまったく見えない。その後の追撃をするでもなく、敵の出方を待つ。基本的に堅い外骨格なのかパンチやキックで血出てくれないし。

EMP攻撃に耐えるって?

敵のEMP兵器、恐らく体内で核爆発に似た何かを発生させて電磁波によって周囲を沈黙させるのでしょう。対イェーガーに向けた必殺兵器かと。電磁シールドとかしてないんですかね? まあともあれ、直撃を受けたイェーガー、見える範囲の都市機能、味方本拠地の機能が完全に停止します。そこで主人公が「俺たちのイェーガーはアナログだ!」あ、アナログで動くイエーガーってなんだろう。そこはこう、あの攻撃があったときは電源が入ってなかったから動けるとか、そういうので良かったんじゃないですかね? アナログだろうがなんだろうが、少しでも電子部品積んでればお陀仏な攻撃だったと思うんですが。

さらに、基地も沈黙しているのにどうやって運び出すんだろう。あとヘリとか。と思ってたら普通にヘリで現地に飛んできました。どういうことなの。

緊急脱出装置を積んでいないのか

イェーガーと同じくらい重要なのがパイロット。二人乗りで運用する以上、その価値は普通の軍人さんよりも高いはず。しかし、緊急脱出するような場面、というかそのような機能がある描写は主人公のイェーガー以外にありません。ロシア機などは浸水による満水死となってしまいました。

夜戦好きだね

とにかく夜の戦いが多い。おまけに雨などで視界が悪い。イェーガーの放つ光とカイジュウの眼光とディティールでカッコイイ絵が撮れるのは分かるけれど、もっと白昼の下でガシガシ戦って欲しかった。

それは計算じゃない。

「どんどんカイジュウが出る間隔が短くなってるんだ! 僕の計算によれば~」って、それってただの実測から推し量れると思うんだ。間隔が短くなってるのは事実だし、計算で導き出せるくらい正確なら皆体感的に感じているはず。もちろんそれ以外にも色々と計算はしているのかもしれないけれど、なんだかやった仕事が「カイジュウの出る間隔を割り出した」だけみたいな事になってるのは不憫でならない。

元軍人として弾を使い切るのはどうなのか

主人公はとにかくプラズマキャノンを敵に放ちまくる。その上で死んだであろうカイジュウに「確かめよう」と死体蹴りよろしく数発ぶち込む。明らかに必殺技っぽいのにそんな気軽に使いまくっても・・・。と二匹目での戦闘時に「もう弾は使い切った!」って。やっぱり全弾使い込んでました。弾の無い銃を抱える程怖いことはないと思うのですが。格闘だけでいけると思っていたのですか。

最初に出そうよ追加武器

「くそ! 武器は何も無いぞ!!」「武器ならあるわ」とここぞとばかりに出る新兵器。いやあ、最初に出して欲しかったな、それ。というか主人公も自分の乗るイェーガーのスペックはちゃんと見ようよ。元軍人でしょ? それあれば死体蹴りで無駄打ちしたプラズマキャノン温存出来たんじゃないだろうか。

それ、本当に被爆?

元大佐は鼻から血を流し、もう一度イェーガーに乗ったら死ぬとのたまうのだけれど、その理由が「被爆したから」って、どちらかというと乗りすぎで脳に負担がかかりすぎてるだけなんじゃ無いか? と思えるんですが。しかももう一度乗ったらって、そんな具体的に。 というか現在進行形でイェーガーは放射能もれもれなんですかね。そんな危険なのにヒロイン乗せるなよという気もしますが。

海に入るなぁー!

陸上ですら手に負えないカイジュウ相手に海中で挑むなんて気がしれません。主人公機は案の定プラズマキャノンが使えなくなって剣のみだし、視界は最悪。敵はすいすい泳ぎ回ってる。こわっ! こわっ!! もう少し頭を使ってくれ。お願いだから。

独断すぎないか

強大な敵に囲まれ、タイミングを図り自爆する。凄く格好いいシーンのはずなんだけれど、「これから自爆する」って大佐勝手に決めるなや。隣に人乗ってるんだが。というか緊急脱出装置はやっぱり無いんだね。お隣さんも「ご一緒できて光栄でした」って一緒にボタン押すし。君のお父さんなんともいえない微妙な表情してたよ・・・。

カイジュウの赤ちゃんって

カイジュウの脳に入って情報を探るのは「おおっ」と思った事だけれど、赤ちゃんにやるのはどうなんだろう。カイジュウ同士は繋がっている的な話は出ていたけれど、赤ちゃんの脳に入り込んでも詳しく色々と見れるものなんですかね。

GLaDOSたんじゃないのおおおおおお

イェーガーのナビ子の声は、吹き替えじゃなければゲーム「Portal」のボスキャラ「GLaDOS」というAIの声でした。これは意図的なもので、開発元のSTEAMからも許可を取り付けてます。いくつかのニュースサイトでは「GLaDOS映画デビュー!」なんて見だしてパシフィック・リムが紹介されていました。その声は「大ヒット上映中! 3D/2D同時上映|映画『パシフィック・リム』公式サイト」のメニューへアクセスすることで聞くことが出来ます。

どれだけ吹き替えがよくても、GLaDOSたんの声がきけないなんて。ああ。BDが出たら是非とも字幕版でも見てみてくださいねorz

となんやかんや言っても

特に気になった所を上げただけですけれども、このように色々と粗はあるんですが。ここら辺に口を出すと負けなんですよ。カッコイイモチーフのためには道理も理屈も通らないのです。早くBD出ないかなあ。

お決まりを把握してないと少しキツイかもしれない「ローン・レンジャー」感想

ローン・レンジャー | ジョニー・デップ | ディズニー映画

予告からして「なんかパイレーツ・オブ・カリビアンみたいだなあ」と思ってたら同じ監督さんなようで。

全体的な感想としては、陸に移したパイレーツ・オブ・カリビアン。というかジョニーデップが出てる時点でスクリーンがジョニーデップ色に染まるんですが。海から陸に舞台を移した分、美しい風景や荒野といった景色を楽しめはします。

しかしこう、どうにも間延び感は禁じ得ません。ストーリー自体が単純なだけに、合間にどれだけイベントを盛り込んでもいまいち盛り上がりに欠ける。二時間半ある長い尺を贅沢に使いすぎたか。

ディズニーお得意の音楽に合わせた盛り上がりも、コメディコメディするにはどうにもお話が暗い気が。子供が見るには少し血が多すぎる。はっきり言ってキツイのでは。

かといえば主人公はお堅いおりこうさんで、どうにも煮え切らない。子供向けなのか大人向けなのか、どっちなんだろう・・・。と思っていたら、このタイトル自体昔からあるもののリメイク作品なのですね。とすれば、「お決まり」な要素が色々とあるのかもしれません。

西部劇自体が日本ではあまり受けない気もしますが。はてさて。

とにかく大迫力・息継ぎなしのロボットアクション「パシフィック・リム」感想

大ヒット上映中! 3D/2D同時上映|映画『パシフィック・リム』公式サイト

近未来。太平洋の奥深くにある海溝から突如巨大な生物が現れ、世界各国の主要都市が次々と襲われた。「カイジュウ」(怪獣)と呼称される謎の巨大生物たちの圧倒的な力を前に、人類は滅亡の危機に瀕する。国際的な軍事組織、環太平洋防衛軍は最終手段として、パイロットと神経を接続して動く2人乗りの巨大ロボット「イェーガー」を稼働させ、カイジュウ退治に向かわせた。対怪獣戦争のはじまりである。

とにかく迫力のある映画がみたい! と思ったら今年はもうこの映画意外にないだろう、と思うほどに出し惜しみしない映画だ。

目まぐるしい程にシーンが進み、戦闘、戦闘、戦闘!!

冒頭一分からカイジュウが出現してからノンストップ。スピードマックス。監督はこの映画を「目のプロテイン」と表現したけれど、まさにという感じ。

その分細かな所に粗が見受けられるものの、そんな事を気にしてたら負けだ。カイジュウは怪獣らしく動き回り、ロボはロボらしくガショガショ駆動する。それぞれ特徴があって実に良い。突拍子の無い設定が目白押しで、特撮ファンはきっとこういうのたまらないのだろうなと思う。音楽も素晴らしく、ゴジラの登場シーンを彷彿とさせるような曲調はきっとリスペクトなのかなとか思ったり。

吹き替え版は声優の方々が熱演していて無理なく物語にのめり込めるし、贅沢な娯楽映画が出来たものだ。

話題になった芦田愛菜の演技も見事。「ママ」の一声に胸が締め付けられる。

総じて、満足度が高く手放しで見る事が出来る映画だった。

確かに感じられる生々しさ「リング」感想

同日の同時刻に苦悶と驚愕の表情を残して死亡した四人の少年少女。雑誌記者の浅川は姪の死に不審を抱き調査を始めた。――そしていま、浅川は一本のビデオテープを手にしている。少年たちは、これを見た一週間後に死亡している。浅川は、震える手でビデオをデッキに送り込む。期待と恐怖に顔を歪めながら。画面に光が入る。静かにビデオが始まった……。恐怖とともに、未知なる世界へと導くホラー小説の金字塔。

なぜ今更「リング」なのかと言われれば、夏らしい本を読みたくなったのと、映画「貞子3D2」がやることを耳にしたからに他なりません。

日本で一番名前が知られている幽霊、貞子。

原作ではどのような存在で描かれているのか、今更ながらが気になったのです。

読みやすい文体の中に潜む生々しさ

さらりと読めてしまう文体はぐいぐいと物語へと読み手を誘い入れる。しかし、そこには確かに得体の知れない生臭さを感じ取ることが出来る。忘れた頃に挿入されるどうしようもないほどの生活感。匂いすら発しそうな描写。そしてビデオ。

この物語は、主人公「浅川」から見た貞子の分析録だ。自分を守るため、そして家族を守るためにもがいた一週間が濃密に収まっている。

彼は確実に貞子へと近づいていき、その輪郭を浮き彫りにさせていく。

一週間で死ぬビデオを中心に、「貞子」をも巻き込んで目まぐるしい速度をもって物語が展開される。

絡み合う人と人

表題にある「リング」の通り。この物語は人同士の繋がりが重要になる。

それぞれの思惑、それぞれの行動が密にリンクしあい、一つの惨劇とも言える終末へと向けて転がっていく。謎が謎を呼び、その謎が新たな人物を引き寄せる。そうして、まるで終わりが無いかのようにどこまでも深くなっていく。

それはあまりにもサスペンスめいていて、いつの間にか這い寄る恐怖よりも、真相を知りたいという欲求が勝ってくる。

浅川たちが出した結論は果たして正しいのかどうか。最後の怒濤の展開は、言わずもがなだ。

創作につきまとう「面白ければ良い」という呪詛

何をもって「面白い」とするのか

私が創作(小説、絵、プログラム、シナリオ)をする理由は「楽しい」というものの他に、「伝えたい」というものがある。自分の感じた面白いという感情を、出来るだけ正確に伝えたい。その欲求は湯水のように湧いてきて私を動かす。

自分が触って楽しいと思えるツールを皆に利用して貰うのは大変に喜ばしい事だし、小説を読んでくれた人に「面白い」といって貰えた時の幸せといったらない。

さあ、もっとよくしよう、もっといいものを作ろうとしたとき。さらなる何かを生み出そうとしたとき、その呪詛は私を絡め取って離さなくなる。

楽しんでもらえる物を作る以上、「面白ければ良い」という価値観は真理だし、これ以上に優先するべき事は無いと私は考えている。これは他の創作者さんも感じていることだというのが、コミュニティに所属していてなんとなく分かってきた。念のために付け足すと、大多数というわけではない。私は全ての創作者さんと知り合いなわけではないのだから。

アニメ化、映画化されている作品を読んで「面白い」と感じた時の感覚を私は大切にしたい。それは世間とずれていないということで、面白い感じる私の嗜好がズレていない一つのパラメータとなる。逆に「面白くない」と感じた時は特に注意が必要だと思う。どうしてそれが面白くないのか。明確に言葉に出来る答えを持っておきたいと思う。私にとっての「面白くない」は、誰かにとっての「面白い」でもあるのだから。

どれだけ理屈を積み上げても無駄

アニメ、小説、漫画。エンタメに特化したメディアを軽く分解して、どうしてそれが面白いのか、どうすればこれが出来上がるのか。私は一人で思考を回すのがわりかし好きだ。

そうして分解した要素を並べて、組み替えて、どうしたら面白いものが出来上がるだろうか? と質問を投げかけたときに、帰ってくる答えが大抵「面白ければ良い」というものだった。どれだけ議論が白熱し、長い間に仮定と思考が繰り返されたとしても、誰かの「面白ければ良い」という言葉で幕が降りる。

女子高生、戦車、戦闘、死、生、エロ、グロ、コメディ、ラブ。色々な要素、色々なシナリオラインを組み上げたとしても、「面白ければ良い」で片が付く。要素で説明できない価値観。全てに優先されるからこそ、全ての答えになってしまう価値観が「面白ければ良い」というものなんだと私は思うようになった。

人を惹きつける面白さとは

例えば「最後まで読めば面白い」と評される小説があったとする。貴方はその小説を最後まで読める自信があるだろうか。とくに前評判も聞かず、適当に手に取ったとして、その本を貴方は果たして最後まで読めるか?

本当に面白い本だとしたら、私は最後まで読めると思う。最後の最後に用意された最高のエンディングのための道筋が、面白くないはずはないのだ。そこに至るまでの一文字一文字は、エンディングに向かうための確かな魅力を放っているに違いない。そして、その面白さは最後で爆発する。結果、爆発の印象だけ残って「最後まで読めば面白い」という評価に繋がるのだと私は思う。読み進められるだけの面白さが無いと、人は最後までは読まないものだ。楽しいことは無数にあり、それら一つ一つに私たちが最後まで目を通すには、時間はあまりにも限られている。

面白い小説は人を惹きつける力が強い。最初のページを開いた時、一行目を読んだ時。吸い込まれるような力が確かにある。これが「面白さ」だと直感する。どうすればこれを会得できるのだろう?

テリングの力

テリングとは、つまり語りだ。

人に訴えかける文章自体が持つ力。想像力をかき立てたり、説得させるために用いられる技術の一つ一つ。

演劇の演目が一つあったとして、それを素人がやるのと、プロがやるのではまるで違う。

動作、呼吸、声の張り、視線。あらゆる要素が一瞬で発散される。どんなに内容が同じでも、それを表現する人によって「面白さ」は如何様にも変化する。

つまり、「面白さ」を決めているのはテリングの力なのかもしれない。もちろん、全てがそうというわけでもない。あらゆる要素が整ってから、その底上げ、大部分をテリングが締めているのでは、と私は思う。

それでも分析する

ここまで考えた所で、私はまた振り出しに戻ってエンタメ作品の面白さを分析する。なぜこれが面白いのか、どうして面白いと感じるのか。

自分の感情の動きを観察して、納得できないと気が済まない。

そして、それがどうしても分からなかったとき、私はひどく困惑する。

面白いと感じる自分自身を見失う感覚とでもいうのか。落ち着かない気分になる。

趣味として活動していても、私の創作者としての砂糖の粒よりも小さな溶けかけのプライドが「よくわかんないけど面白い」という答えを拒絶するから起こる反応に違いない。

そして、私自身を縛る

そうやってどうにか噛み砕き、さて作ろうとしたとき。まっ白な画面、紙、エディタを見たとき。「面白ければ良い」という価値観が私を縛る。

私が考える「面白い」は、果たして人に伝わるのだろうか。どうすれば伝わるのだろうか。どう組み上げれば、人の心を動かせるのか。

自分にしか分からない物で良いのならば、わざわざ表現して他人に見せる必要もないと私は思う。作るからには、皆に面白いといってもらえるものを作りたい。そうやって思考を回せば回すほど「面白ければ良い」という呪詛が私の脳に渦巻いて離れない。そこに辿り着く答えが欲しいのに、過程は仮定のまま下底に沈み込む。別に言葉遊びではなく、そういう表現がピタリと当てはまる気がしてしまうのだ。

物語における「変わらない主人公」考察もしくは雑感

数多の物語において、いわゆる成長しない主人公、変わらない主人公というのはどういう描かれ方をするのだろうか。少ない知見量の中から考えてみたい。

そういう設定をされている or そこが見所ではない

日常系、短話形、推理物など。主人公が語り手、カメラ以上の必要性を持ちえていない物語においてはこれが当てはまると思う。

成長、つまり時間の流れを考えなくても良い、もしくは無い方が良いという形だ。読み続ける必要がなく、途中から読んでもなんら差し支えない。

すでに成長を終えている

物語が始まった時点で、ある程度の修羅場をくぐりぬけており、ほぼ伸びしろが無い状態にある主人公だ。

例えば「ソード・アート・オンライン」のキリトは、過去に色々な人物との関係性とやりとりにより原作一巻の落ち着きを得ている。ヒロインであるアスナや後々の登場人物とのふれあいによって多少は変化する心情があるものの、三巻以降はほとんど身体的にも精神的にも変化は見られないように思う。

「はぐれ勇者の鬼畜美学」の凰沢暁月もまた、成長を終えた主人公である。物語開始時点ですでに異世界の勇者としての役目を終えており、現実の世界に戻ってきている状態だ。この物語のコンセプトは「冒険を終えた勇者のその後」ということで、力量、精神的な成長も完全に終えている。ゲームで例えると強くてニューゲームといったところ。ヒロインも強力な魔法を物語はじめから使えたりする。

いわゆる「俺TUEEEE」などと言われるジャンルには、このタイプの主人公が多いのかもしれない。無双する強さを持ちながら、精神的に落ち着き、誰に対しても有利な立場にある。そういったキャラクターを主人公に添えた物語の需要があるという事は知っていていいのかもしれない。

映画に目を向けるとこのフォーマットは意外とよくあることに気づく。

裏切られたエリート軍人が復讐を誓う、さらわれた娘のためにハイパーお父さんががんばる、などなど。短い時間で快感を得る手法として、典型的な例ではないだろうか。

成長しない事が魅力

ある意味ではすでに成長を終えた主人公と同じかもしれないが、分けてみた。

「とある魔術の禁書目録」の上条当麻などはこれに当てはまる。どのような事件でも敵の特殊能力をはじく手のみで戦う。どちらかというと精神的な成長はしているのかもしれないが、作中にそれが発露することはあまりない。

変わらないからこそ、良い。というその典型なような気がする。

また、これを利用して一種のギミックとして使ったのが「僕は友達が少ない」の羽瀬川小鷹だ。彼は「難聴系主人公」というものに分類されるもので、恋愛事にとことん疎く、愛の告白やアクションに気づかなかったり「なんだって?」と聞こえないそぶりを見せる。どたばたコメディによくある何も進展しないタイプの主人公だが、それ自体を複線として物語に取り込んでいる。

精神的な成長がない

「変わらなさ」が魅力の主人公で、もっとも一般的なのはこれだろう。

代表的なものが「ドラゴンボール」の孫悟空である。力量は天井知らずに高まっていくが、その精神年齢は子供の時のままだ。強い敵が好きであり、それ以外に対しては完全に興味を示さない。

少年漫画の主人公はこのタイプが多い。

気づかれない位に成長が遅い

「主人公」という存在は、読者と常に一緒になって物語を進んでいく。そんななか、いきなり成長しては読者と主人公の間で「ギャップ」が生まれてしまい没入感が薄れてしまう原因になりかねない。

「マリア様がみてる」の主人公である福沢祐巳は、特に取り柄もなく平均・平凡な女子生徒であるが、ひょんなことから高嶺の花であるはずの上級生と関係を持つことになる。という粗筋。どこまでも完璧な上級生と、平凡な主人公のおっかなびっくりなやり取りを見ながらクスクス笑うという歯がゆくも上品な物語だ。下級生も入ってきて、二人の関係が落ち着き揺るがぬものになってきたころ、ふと視点が移る。外から見た主人公が密に描かれてみると、どんな事にも揺るがず、誰とでも親しく接するもう一つの主人公が顔をあらわす。

今まで主人公と一緒に時間を送ってきた読者は、ここでガツンとショックを受けるというわけだ。

周りを成長させる主人公

先述とは逆の立場にある主人公の形だ。「成長」を際立たせるには、常時隣にものさしが必要になる。戦闘ものならば隣にライバルが常にいて、主人公は常に彼を超越する存在となっている。前より強い敵が出て、主人公はまたそれを乗り越える。

しかし逆に、周りが圧倒的な力量を持っており、精神的にも勝ち得ない場合。主人公が守られる立場にある場合。成長をどう描けばよいのだろうか。

つまり、主人公がものさしになるしかない。成長する周りを、観測する主人公となるのである。

しかし、それでも常に物語は主人公を中心にして回る。

「魔法少女まどか☆マギカ」の鹿目まどかは、主人公でありながらほぼ最後まで魔法少女になることはない。悩みながらも周りから止められ、成長できない。刻々と進行する物語は周りをいやおう無く振り回し、諦めや達観を与えていく。そして主人公の最後の決断が、周囲の成長を促していく。

「涼宮ハルヒの憂鬱」のキョン(物語の中心人物としてはハルヒであるが、カメラ、語り手としては彼が主人公であると思う)は成長せず、常に流れに身を任せている。そんな中で、周囲の人物は何故だか彼に了解をとり、活動を続けていく。不思議な関係が脈々と続き、周囲は着実に変化を続けていき、それが色々な騒動を巻き起こしていく。

物語が進むのに、何も変わらない。変わらないことを強要されてるにしろ、変わらないと決意してるにしろ、それ自体が特殊な存在になる。

こうしてみると、表現が難しい主人公であることがわかる。

終わりに

えらそうに書き連ねておいて、考えていたのはただのパターンに当てはめただけという落ちになってしまった。

今後の創作の糧になる事を祈ろうと思う。